信州上田真田陣太鼓保存会公式サイト

演目紹介 <Program>



一、『出陣』…第一次上田合戦絵巻


天正13年(1585年)信濃国の上田城と近隣の山城周辺、上田市の東部を南北に流れる神川付近などで行われた戦い。
徳川家康と北条氏直との間に結ばれた和睦の証として、真田昌幸に無断で真田家の所領「沼田城」と北条家の佐久を交換するという約束を結んでしまう。 徳川家康は真田昌幸に「沼田」を北条家へ明け渡すよう求めたが、昌幸はこれを拒否、上杉景勝に帰属して徳川家康に対抗する姿勢を示した。
威信を傷つけられた徳川家康は、真田氏討伐の為軍勢を差し向け、これが第一次上田合戦の幕開けとなった。
「下知、兵揃、出陣、戦場」からなり、上田城に集結し戦場に向かう真田軍を表す。



一、『祝い』…第一次上田合戦 戦勝の宴


徳川軍は鳥居元忠・大久保忠世らの武将を中心として7,000の兵力で上田城に攻め寄せるも、真田軍は僅か2,000程の兵力にて撃退し、 この戦いをもって真田昌幸の武名が世に広く知られることとなった。

「序、喜び、舞、祝い、結」からなり、勝戦を祝い、兵や町人が浮かれ踊り、城内で獅子が舞い踊るありさまを表す。



一、『下野国犬伏の別れ』・・・…真田父子犬伏の別れ


徳川家康は徐々に野望を露出させ豊臣政権で巧妙に影響力を高めていく。 会津上杉景勝の家臣、直江兼続の”直江状”を契機に、慶長五年(1600年)六月、徳川家康は五大老の名の下に諸大名を率い会津討伐に向かった。 時を同じくして、真田父子も主筋となる徳川家康の発した号令の下に集い沼田を出るが、 この機会に徳川家康を除こうと考えた豊臣恩顧の旗頭、五奉行筆頭石田三成より下野国(栃木県)犬伏に陣屋を構えた真田昌幸のもとに密使が届く。

天下分け目の大戦(関ヶ原)を前に犬伏の陣屋にて真田父子の密談が行われた。徳川勢に付く兄信幸。石田三成に付くことを決意した父昌幸・弟幸村の決別を三鼓の響きで表す。



一、『合戦』…第二次上田合戦絵巻


慶長5年(1600年)石田三成を討伐するため、徳川秀忠は徳川勢の本隊を率いて下野の宇都宮を出発。総勢約38,000もの軍勢で、中山道から上野を抜け信濃に入る。 小諸城に到着した徳川秀忠は、真田昌幸に使者に送り上田城を明け渡すよう伝えるも、昌幸はすぐに返事をせず、その間に戦いの準備を進めていった。 真田に降伏の意思なしとして、徳川秀忠は染屋台に陣を敷き上田城への総攻撃を開始、第二次上田合戦の火蓋が切って落とされた。 徳川勢を迎え撃つ真田の兵力は約3,000。真田昌幸・幸村は地の利を生かし少数精鋭を率いて追撃してくる徳川勢を翻弄し、結局、徳川秀忠は上田城を攻略することができなかった。

「川の流れ、合戦、士気、戦、追撃、下知、堤の壊、勝ちどき」からなり、神川の水流を味方に付けた巧みな戦いぶりをあらわす。



一、『佐助』・・・天正3年~(1575年)草の者忍者


「猿飛佐助、霧隠才蔵」といえば草の者忍者で有名な真田十勇士。幸村に仕えて戦乱の世に大活躍する。この十勇士、特に忍者の神出鬼没・縦横無尽の活躍ぶりを躍動感あふれるリズムにて表す。



一、『真田丸』・・・大坂冬の陣 合戦絵巻


徳川家康は関ヶ原の戦いで勝ち幕府を開いて実権を握るようになる。豊臣秀吉の子、秀頼が成長するにつれ、豊臣家と徳川家との溝は深まっていった。 その後、豊臣秀頼が徳川家康のすすめで方広寺を立て直しした際、鋳造した鐘の銘文「国家安康」を家康の名を二つに切って没落するよう呪い、 「君臣豊楽」を豊臣家の繁栄を祈願しているものだと非難して、戦の口実を作った徳川家康は、豊臣家を滅ぼすべく戦をしかけたのだった。
慶長19年(1614年)豊臣家より合流の要請を受けた真田幸村は、蟄居先の九度山において徳川の見張りをうまくかわして、妻子と僅かな家臣らを率いて大坂城に入り、豊臣秀頼・淀殿らに拝謁する。 真田幸村は大坂城南方からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築くことを進言。それが許されると自ら出城に入り指揮をとった。
豊臣方10万の軍勢に対し、徳川勢は約20万もの軍勢を率いて大坂城を取り囲み、東軍総大将徳川家康・秀忠は茶臼山を本陣として着陣。ここに大坂冬の陣と呼ばれる豊臣家と徳川家との大戦が始まったのである。

「朝霧、集軍、進軍、合戦」からなり、大坂豊臣方、真田幸村の大坂城冬の陣での戦い。大坂城南方に築いた出城真田丸での合戦を表す。

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